二月も半ばを過ぎ、暦の上はとうに春でも、寒さは一層増すばかり。
井崎は今、県立後江高等学校にいる。
といっても、試験本番ではない。今日は出願書類を提出しに来たのだ。
緩やかな、しかし長い坂の上を登り切った先に建つ大きな校舎。春からここへ通うことが果たしてできるのだろうか。
「まあ、考えてもしゃあないわな」
不安を振り払うようにひとりごちても、胸の内は晴れない。西日の差し込む正面玄関には井崎と、書類受付の職員を除いて誰もいなかった。人が少ない理由を尋ねると、午後の授業を早退して一番乗りを目指す生徒が多く、一時間ほど前までは混雑していたという。
「早く来てもいいことはないんだけどね。明日の締め切り間際も列が伸びると思うよ。今の時間帯くらいに来るのが一番、あっ」
「えっ、あ、おわぁっ」
職員が驚いた声を上げるのと同時に、いきなり後ろから引っ張られる。誰かに抱き寄せられたのだ、と気づいた時には、腕の中だった。
「よお井崎、なんか久しぶり!そのだっさいコート、絶妙に似合ってるぜっ!」
「……三和さん」
井崎の本命であるこの後江高校には、櫂トシキと三和タイシが通っている。つまり、(受かれば)彼らの後輩になるわけだ。こうやって不意打ちを喰らうことも想定しておかなければいけないのだが、まさか出願時に早速遭遇するとは思っていなかった。
腕をほどいて振り向くと、三和はいたずらに成功した子供がよくする得意げな表情を浮かべ、Vサインを突き出した。薄灰色のピーコートにピンクのマフラーというなかなか斬新なカラーコーディネイトだが、不思議と着こなしに違和感はない。井崎は自分のダッフルコートが妙に野暮ったく思えて、少し気恥ずかしくなり俯いた。学校指定のものなので仕方がないといえば、それまでなのだが。
「コラァ三和っ!!」それまで柔和な顔つきだった職員が突然鬼のような形相で声を荒げた。「受験生を待ち伏せして絡むのはやめろと何度言ったらわかるんだ、この、クソガキッ!」
「やーだセンセイこわーい。こいつはオレの知り合いなの。未来の後輩候補にいろいろ教えてあげるのが、先輩の義務ってもんじゃない?」
「じゃかぁしい! とっとと櫂のアホタレを連れて下校せんか!」
「櫂ならもう帰っちゃったよー。オレおいてけぼりにされちゃったんだ。だからコイツと帰ろうと思って。そういうわけで、またねセンセイ」
三和は怯む様子もなく、呆然としたままの井崎を引きずって歩き出した。「ほら、井崎、センセイに挨拶は」
「あ、ええと、あの、失礼します」
「はい、さよなら。……三和、明日も同じことをやったらどうなるかわかってるな」
「わかってマースさよならー」
三和に促されるまま連れてこられたのは、正門のすぐ傍にある駐輪場だった。
「あのセンセイ、ガミガミ言うけど理不尽なことはしない、いい先生だよ。井崎のことは怒ってないから安心しな」
「はあ……」あの教員が三和(とたぶん櫂)に相当手こずっているのだろうとは、何となく井崎にも想像がついた。「三和さん、チャリ通だったんですね」
「へへ、こないだ新しいの買っちゃったからさ、ちょっと慣らし運転。坂がきついから昇りは大変だけど、駅前の駐輪場は金がかかるからねー」
「妙なところで節約家だな……」
「なあ、そういや、アイチと森川は? 一緒じゃないのか?」
下校の鐘が鳴り響く。井崎ははっと顔を上げて、思わず三和を睨んだ。三和は優しい表情で、黙って井崎を見つめている。
沈む夕陽に照らされて、二人は全身を朱色と黄金に染めながら立ち尽くしていた。冬の風が大気を揺らし、やがて濃紺の夜がひたひたと体を包み、星が瞬き始めても、しばらくそうしていた。
やがてあきらめたように口を開いたのは、井崎の方だった。「何で、そんなこと訊くんですか」
「だってお前、何かしょんぼりしてるんだもん」
アイチと森川は、県内学力ランキングトップのT高に合格した。この春から、二人は同じ学校へ通う切符を手に入れたのだ。アイチはともかく森川が合格を掴んだという事実は、全校生徒と教師の間で大騒ぎになった。当の本人たちは何食わぬ顔で野次馬をかわし、井崎の追い込み勉強を手伝ってくれているが。
井崎は知っている。二人が同じ道を歩もうと誓い合っていたこと、アイチが森川に合わせてわざとランクの低い高校を選ぼうとしていたこと、それを教師達に遠回しに咎められた森川が啖呵を切ったこと。
『成績に差がある奴同士がダチになっちゃいけねえってのか!? ふざけんな! アイチてめえもオレにつまんねえ遠慮なんかするな!
オレが今から勉強して、お前と同じ位頭良くなりゃ何も問題ないんだろうが!』
そしてそれは実現されたのだ。
ならば何故、素直に喜べないのだろう?
「何て言うか、あの二人が必死で頑張ってたのに、一人で安牌切った自分が、ちょっとカッコ悪いなって思ってただけです。つまんない自己嫌悪と、あとは……」
「よしわかった」唐突に三和が遮る。「お前、寂しいんだろ?」
「人の話は最後まで聴きなさい!……だけど、そうか、俺、寂しいのか……」
三和はひときわ優しく微笑む。それはとっておきの、掛け値なしの笑顔で、女の子を落とすときにも滅多に見せない必殺技だった。そのまま井崎の頭を乱暴に撫でて、「大丈夫さ」と宥めるような声色で呟く。
「そりゃ今みたいに一緒にはいられないけどさ。人の縁は、そう簡単には切れないよ。オレもさあ、櫂が引っ越しちゃった時、もう一生会えないって思って、悲しかった。ほら、小学生って、今みたいに自力で遠くまでいけないじゃん?
でもオレはもっかいアイツに会えた。だからお前も大丈夫。学校が違ったって、カードキャピタルに行けば会えるだろう? オレがお前に会えるみたいに」
「三和さん……」
それにさあ、と三和は続けた。「お前は、自分で考えてここを受けようって決めたんだろ。そのために頑張ったんだろ。だったらそれを迷うことはないし、一緒の学校受けないことが友情に悖るなんて思っちゃだめだ。わかる?」
「……何となく」
「なら良し。先輩のお説教は終了。乗りなよ、送ってってやるから」
自転車に跨った三和に促されるまま、井崎は後ろに腰掛けた。走り出した自転車は正門を抜け、長い坂を一気に駆け抜ける。冷ややかな空気を鋭く切り裂いて、速く、速く、息もできない程速く。
「三和さん」風音にかき消されないよう、大きな声で叫ぶ。「俺、受験頑張ります」
「おう! 待ってるぜ、後輩!」
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