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【2025/07/26 10:36 】 |
あしのはらにうわばみ・後編
うわばみくちなわあおだいしょう。
エレベーターが重苦しいうなり声をあげて昇っていく。文字のかすれた丸いボタンも、こっくりした飴色の床も、この大きな箱がけっこうな歳月を重ねていることを物語っている。
きっとたくさんの人を運んできたに違いないなと芦原は思った。従業員や、家族連れや、夫婦者や、学生や、孤独な旅人、時には道ならぬ逢瀬を重ねる恋人を載せて、毎日毎日せわしなく昇ったり降りたりしてきたのだ。
気になる子を酔っ払わせて部屋に連れ込もうとしてる、オレのようなろくでもない奴もいただろうか。いたかもしれないね。でも見逃してね。
エレベーター相手に言い訳している芦原もまた、だいぶ酔いが回っていた。
午後十時半のことである。


ちん、と古めかしいベルの音で到着を告げ、エレベーターの扉がゆっくり開いた。
しかし、扉の向こうに長く伸びているはずの緋毛氈の廊下が見えない。
「……倉田」自然と間の抜けた声が出る。「何してんのそこで」

エレベーターの前に立ちはだかって芦原の視界を遮っていたのは倉田だった。旅館のロゴが入った浴衣を着ている姿はぱっと見た感じ相撲取りにしか見えない。よくこいつに着用できるサイズがあったものだと芦原は思った。
倉田は何も答えず、手にしていたかじりかけの温泉饅頭(指導碁の際に出されたお茶請けだ)をぽいっと口に放り込んでむじゃむじゃと咀嚼し、あっという間に呑み込んだ。それからやっと口を開いた。

「ばか?」

その一声が静かな廊下に響き渡る。

「芦原ってばか? まんじゅう食べてるに 決まってんじゃん」

声色にも表情にも蔑みは一切ない。一足す一はと問われて二と返すような、ごく簡単な詰碁の一手を示すような、あまりにもあっけらかんとしたものの言い方に返す言葉を失う芦原。

「緒方先生から聞いたぞ。芦原、お前、冴木くんを酒で潰して、遊ぼうとしてるんだってな」

どこからか新たに取り出したまんじゅうの包みを剥きながらえげつないことを、やはりなんでもない口調で倉田は言った。まるで芦原がそういうことを平気でやる人間であるかのような何でもなさが、だんだん芦原の心に波を立たせていく。

「……なんなんだよ、突然。お説教にしたって、もっとまじめに言えよ」
「お説教? お説教ってのは、心配だからするもんなんだ。オレは芦原の心配なんか全然してないぞ。オレはただ、冴木くんに借りがあるからまあちょっと止めようかなっ、と思ったんだ」

倉田がずいっと一歩前へ踏み出し、エレベーターに半分だけ乗り込む形になる。森に棲んでオカリナを吹くふしぎなとなりの生き物を思わせる幅の広い体型を生かした、鉄壁のディフェンスだ。出られない。それでなくても、酔っぱらった冴木を肩に担いでいて身動きが取れないのに。
「この温泉まんじゅうは冴木くんにもらったものだからな」
「……ああ、そう……」

倉田が冴木の持っていた饅頭に物欲しげな熱い視線を注ぎ、冴木がおずおずとそれを差し出す光景がなんとなく目に浮かぶ。世間一般ではそういうのを『せしめた』と言うのだが、倉田の辞書で言えばそれは『もらった』に該当するのだ。
その倉田語でいうところの『もらった』饅頭を食べながら、倉田はじぃっと芦原を見た。思わず気圧されて一歩下がった芦原の背中を壁が受け止める。逃げ道なんかないのだと気づかされ、酔いがいっぺんに醒めた。
だが饅頭を食べ終わっても、倉田はそのまま動かない。その体で閉じようとする扉を跳ね返して、年季の入ったはたらきものの昇降機をどこにもいけない箱にして、動物みたいなぱっちりした目で芦原を、ただ見ている。何もかも見透かしているような、何も考えていないような、そのわけわからなさに、芦原はぞっとした。『なんだかわからないもの』への本能的な恐怖に全身がこわばる。これなら緒方の軽蔑と怒りに満ちた眼差しの方が、正体がわかる分まだマシだ。
誰か来てくれないか。芦原は心の中で念じた。よぼよぼのおじいちゃんとか、小さい子連れの母親とか、酔っぱらいのオヤジ集団なんかもっといい、とにかく誰かが倉田の背後から現れて、あのうすみませんエレベーターを使いたいんですけどって言ってくれれば、逃げ出せるのに。
誰か。
誰か何とかしてくれ。

「芦原」
倉田がゆっくり言った。大事なことだからよく聞けよ、とばかりに。
「何かあっても、誰も何とかしてくれないんだぞ。」

それだけ言うと、あっけなく倉田は身体を引いた。阻まれ続けていた扉が閉まる。
少しの間をおいて再び開いたとき、扉の向こうには誰もいなかった。

***

のろのろと部屋へたどり着き、敷いてあった布団をめくって、ぽんと冴木をうつぶせに寝かせて、上からかけてやる。
そこで芦原は力尽きて、仰向けに寝転がった。冴木を浴衣に着替えさせてやるどころか、自分が着替えるのだっておっくうだった。なにせ布団に潜り込むのも面倒くさいくらいだ。
月の光が窓から差し込んで部屋はぼんやり薄青白く、七月も近いのに冷え冷えとしていた。
「なーにが、話し合うんだぞ、だよ。やっぱりお説教なんじゃないか」

倉田は正しい。


倉田によって心の中に立ち始めたさざ波は今や逆巻く荒波になり、芦原の内側の柔らかいところにぶつかっては波飛沫をぱっと散らした。血の乾かない生傷に塩水が容赦なく沁みて、泣きたい気持ちでいっぱいだ。
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【2013/08/30 00:43 】 | 短い話 | 有り難いご意見(0)
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