土曜の夜のことだ。
ラジオを適当に聞き流しながら部屋で英語の宿題を片付けていると、こんなメールが届いた。
差出人:三和タイシ
件名:アイスd(>ω< )たべよーぜ☆
限定フレーバーが超うまそ→だったからいっぱい買っちゃったv(^^)
明日オレんちでいっしょにたべよー♪
追伸:ベッドになんかすごい地味な腕時計が落っこちてたんだけど、ひょっとしてこれ井崎のじゃない?
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貴女のお側に大天使\(^o^)/三和タイシ
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どうみてもスパムだろう。実にひどい。
随所に散らばる顔文字、たわいもない用件、意味不明かつアホ丸出しの署名、どれを取っても非の打ち所のないチャラ男メールだ。
署名で「貴女」と宣言しているところなんか、いっそ泣けてくる。四六時中、大勢の女とこういうやりとりばかりしているんだろう。しあわせな男だ。
おかげで一番重要なことが書いてある追伸を読み飛ばすかと思った。
添付されていた写真の腕時計は確かに俺のものだ。貰い物だがなかなか正確で、文字盤も見やすいシンプルな作りが気に入っている。お守り代わりに制服のポケットに入れてあったのが落ちてしまったんだろう。
「それにしても…」
思わず呟きが漏れてしまう。あんなことがあったばかりで、なんでまた俺を誘うんだろう。しかもアイスを食べに来いと。意味がわからない。
「行きたくないな」
本音がぽろっと零れた。いやだって行きたくないんだからしょうがない。大体アイスクリームにホイホイつられるほど俺はガキじゃないし、甘いものもそんなに好きでもなかった。何より三和さんの思惑が見えないのがおっかない。
しばらく考えて、「申し訳ないが明日は用事があるので、時計は後日カードキャピタルに持ってきてください」と返信した。これなら訪問を避けつつ時計も回収できる。我ながらうまい言い訳だと思った。
これでよし、と胸をなで下ろしたのもつかの間。
何かおかしい。
(俺…三和さんにアドレス教えた覚えが、ない?)
疑問を見透かしたかのように鳴り出す携帯電話。開いた画面には番号と共にはっきりと、「三和タイシ」の文字が表示されていた。アドレス登録された番号じゃないと相手の名前は出てこないはずだ。
震える指で通話ボタンを押す。
「…もしもし」
『こんばんはァー。オレオレ、三和さんだよー。
ね、明日来れないってなんで?』
「なんでって、あの、何で、俺の番号知ってるんですか」
『お前が寝てる間に見た。ついでにそっちにもオレのアドレス登録しといたから。言っとくけど、ロックもかけてないお前のミスだよ。携帯電話は個人情報の塊なんだから、管理はしっかりしなきゃー』
その個人情報を勝手に盗み見ておきながら、三和さんの口調はまるで悪びれた様子がない。怒りと呆れで俺が何も言えないでいると、
『まあそういうわけで、明日はオレんちまでおいでよ。そしたら時計返したげる。……図と……ションの……号、送……か……』
三和さんは構わずしゃべり続ける。突然電波が乱れたのか、ノイズが混じり声がこもって聴き取りづらい。何でもいいから意思をはっきり伝えておかないと、このままうやむやにされかねない。慌てて通話音量を上げて怒鳴り返した。
「俺は!行かないから!いーですか!!い、き、ま、せ、ん、か、ら!」
『…たー…』
「あ?!」
『ユウタ』
トーンの低い、少しかすれた声が耳から背骨を伝う。電気が体を駆け抜けるような、手足の指先まで痺れる感覚。
『来てよ。待ってるから。じゃあ明日午後1時ね、おやすみ』
言うだけ言ってさっさと切る。反論の隙は与えない。この、横暴な態度に基づく要領のよさが俺には足りない。
真似したいとは思わないが。
通話終了の音が鳴り続けても、しばらく俺は電話を耳に当てたまま硬直していた。
嫌な汗が首を伝う。心臓がすさまじい勢いで脈打っている。先週行われたスポーツテストのシャトルランを思い出すほどに激しく。口だけで浅く息をしながら、俺は今すぐ森川とアイチに会いたくてたまらなかった。
善良な神様にすがらなければ堕落してしまうと、あの人は危険だと、関わるべきでないと、本能が警告していた。
あれは悪魔だ。魅力的な姿で、やさしい言動とおいしい食べ物をちらつかせて近づく。今朝の暖かい言葉なんて、やっぱり全部演技だったに違いない。心に隙間を抱えたみすぼらしい人間を誘惑して弄んで、最後は骨の髄まで喰らってポイ捨てするんだ、きっとそうだ。
もしも万が一、これが下心のない親切だったとしても、いちいちこんな誘いをかけてくるんじゃ体が持たない。
「行かないからな……俺は行かない……」呪詛のように繰り返しながら、頭を抱えて突っ伏した。
つけっぱなしのラジオは道路交通情報を終えて、次の番組に入っている。
「……『座して死を待て!みんなのヴァンガード!!』この番組は、サムライロードの提供でお送りします。今日はスイコがお休みなので、私コーリンと」
「レッカが二人でヴぁんがるよー。それじゃあまずはこのコーナー……」
初めてここへ来たのが金曜日。
二度と来ないと誓ったのが土曜日。
そして今日は日曜日。三和さんの住むこじゃれたマンションの入り口に俺は突っ立っている。
(生来流されやすい性質だと思っていたけど、ここまで意思の弱い人間だったか……)
若干、いやかなり情けない。一体何を考えてるんだ、危機管理についての反省が全く生かされていないじゃないか。また三和さんと一対一でやりあう羽目になったら、今度こそ何が起こるかわからないっていうのに!
と、ひとしきり脳内で己を責め立ててはみたものの、空しいばかりである。それに、やはり腕時計は返してもらいたかった。
(大丈夫、玄関先で用事を済ませて、後はさっさと走って逃げればいいだけだ……)
ともあれ、ここでぼんやりしていても始まらない。深呼吸して携帯を開き、三和さんからのメールを見ながら右手側に設置されたインターホンに住戸の号数を打ち込み、間違いがないかどうか確認して呼び出しボタンを押した。
『はいはいどちらさん?ユキノちゃん?ナツヨちゃん?もしかしてリエぴょんかなあ?』
能天気な声がスピーカー越しにざらざら飛び出る。どちらさん、などととぼけてはいるが、この手のオートロックマンションでは部屋から来訪者の様子が確認できるはずだ。じゃないと、一人暮らしの女の人なんか安心できないだろうし。
「ハイ残念俺でしたー俺ですー井崎ですよー」
『えー?なんだー井崎かーいらっしゃーい。今から服着て迎えに行ってあげるから、ちょっと待っててねー』
「えっ、いや、普通にここ開けてくれれば自分で行きますから、おい、聴けよォ!……切った……」
どうやら三和さんはわざわざここまで来るらしい。身構えたつもりで、あっという間に向こうのペースに乗せられてしまった気がしないでもない。
行儀悪く壁にもたれかかって待つ間、暇つぶしがてらに辺りを眺める。以前ここを通ったときは頭が混乱していたせいで素通りしてしまったが、改めてまじまじ観察すると、何と言ったらいいか、住む世界が違うなあと思ってしまった。
ぴかぴか光る金色のアルファベットでマンションの名前が書かれた入り口も、自動ドアの向こうに見える市松模様の床と吹き抜けの天井を持つエントランスホールも、人の住む家っていうより都会の大きな商社ビルとか、ホテルみたいな雰囲気だ。
もしかしたら警備員が始終見張ってて、俺みたいな住人でもない一般庶民がうろついてたらつまみだされるんじゃないかとひやひやした。
「おいすー」
自動ドアが開いて、三和さんが現れる。Tシャツ+パーカー(しかもどピンク!)+ジーンズのラフな取り合わせでも、さっくり着こなすんだから、ちきしょうイケメンって奴は。全く。
「どうも」
「あれー何で井崎制服なのー?日曜だよ今日」
「…学校に、忘れ物取りに行く予定があるからですよ」
嘘だ。何も考えずに着替えるのはこれが一番だっただけだ。
「なんだ。せっかく俺がファッションチェックしてあげようと思ったのに」
「御免こうむります…先に行っておきますけど、俺は今日は時計を取りに来ただけですか、ら!」
肩に回される手をはたいて睨むと、にゃははーと笑ってごまかしてくる。性質が悪いったらない。
「そう言わずにアイス食べてってよ。今日も暑いしさ。オレ一人じゃ食べきれないよー」
ガラス張りのエレベーターでぐんぐん昇った13階、非常階段のすぐ隣が三和さんの住居だ。
扉を開けた瞬間、冷気が吹き出してくる。エアコンをガンガンかけたまま出てきていたらしい。やっぱり、この人ろくでなしかもしれない。エコロジーってものがわかってない。
「さ、上がって上がって」
「いやここで結構。……約束通り、時計は返してください。三和さんの家まで来たんだから」
靴は脱がない。室内まで上がったらおしまいだ。玄関先でいつでも階段の方向を意識していれば、逃げ切る見込みがあった。
三和さんはぽかーん、とアホみたいな表情で俺を見つめていた後、ようやく言葉の意味がわかったらしく「ああ」とひらひら手を振った。
「ダメだよ。だってまだそこは『オレんち』じゃないだろ。オレんちは、このマンションのこの部屋の中だけだもん。そこはまだマンションだもーん。だからダメェー」
今度は俺が呆ける番だ。三和さんは「さ、だから靴脱いで、上がってきて」とにこにこ笑っている。ほんの少し灰色がかった青い目で、面白いものを見つけた子供の目で、俺を捉えて離さない。
ああ、やっぱり、神様にすがればよかった。もう夜からと遠慮しないで、電話でもメールでもして、頼むからついてきてくれ、助けてくれと言えばよかった。ああ、だけど、もう手遅れだ。
俺はどうしてこうなんだろう。一番悪い結末だけは迎えまいと心に誓っているくせに、うまく立ち回れなくて、よりにもよって最悪の結末を選んでしまう。
とどのつまり、この状況は俺が望んだものだってことか?
暑さで頭がぼーっとしてきた。汗が目に入りそうになって、思わずまぶたを閉じて額をぬぐう。
その瞬間、急に周りの空気が一層冷ややかになった。引きずり込まれた、と気づいた瞬間、背後でドアがばたんと大きな音で閉まる。耳元で、昨日の夜と同じかすれ声が、今度は吐息と一緒に耳をくすぐった。
「あんまりドア開けっ放しだと冷気逃げちゃうよ。エコロジーってものがわかってないな、お前は」
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